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2018-11-09

武田信虎の娘で信玄の異母妹、そして今出川晴季正室お菊御料人

武田信虎が駿河に追放されてから、駿河滞在中にここで作った側室との間に生まれたのが、このお菊御料人です。
彼女は天文十四年(一五四五)に、生まれています。父信虎の駿河追放から、四年目に生まれたようです。そしてこの女性は、後に今出川晴季の正室になっています。
以前に私が三条夫人のサイトの「清華七家」の記事の方で、彼らについて、少し触れた時には、当時の公家男性の初婚の年齢からは、かなり経ってから、この晴季がお菊御料人と結婚したと思われること。また、彼とお菊御料人との結婚前に、晴季には既に他の妻や子供の存在が発見されることから、もしかしたら、このお菊御料人は側室として、嫁いだのかもしれないと書いたのですが。しかし、やはり彼女は、今出川晴季の正室として、嫁いでいたようです。


「言継卿記」によると永禄三年の一月九日に、二十二歳の今出川晴季と十六歳のお菊御料人は結婚しています。
そして確かに、武田信虎の娘であることから考えても、彼女は正室として嫁いだ方が納得がいきますね。それから私は以前に、信玄の正室として三条夫人が嫁いだ頃の武田家には、信虎正室で信玄生母の大井夫人に信虎側室のお西様。
また、信虎の娘で穴山信友正室の南松院などの、教養の高い女性達が多かったようだというようなことを、書いたこともありましたが。


そして信虎の駿河への追放後に生まれた彼の娘の、このお菊御料人ですが。
当時の駿河は元々、今川家が公家との関わりが深い文化的水準も高い家であったこと。
また、寿桂尼自身が公家の姫君であることなどもあり、公家の下向も多い地域でしたし。
それに、当時の大名家の息子や娘たちの結婚は、早い内から決められていることも多く、この今出川季晴の場合も、一方は公家との縁組、また、おそらく、晴季にとっては最初の結婚ではないとはいえ、結構、彼らの結婚も、早い内から決められていた話の可能性も、あるのではないかとも、思いますし。
少なくとも、この結婚も、お菊御料人が実際に嫁ぐ数年前くらいからは、決められていた話だった可能性も、あるのでは。


そしてこれらのことから考えると、このお菊御料人も、嫁ぐ数年前くらいから、その生母によって、公家の教養を身に付けさせるように、育てられていた可能性もあるのかもしれないなも、思いました。また、その方がよりスムーズに、公家の正室としての生活にも、溶け込みやすそうですし。いずれにしても、こうした当時の環境で育ったお菊御料人が、公家文化に触れる機会も多かったと思いますし、彼女が公家の教養を身に付けるのには、恵まれていた環境だったのではないかと考えられます。


そしておそらく、やはりこういう縁談が出てきた背景としては、既に信虎が嫡男の信玄と三条公頼の娘の三条夫人を結婚させていることが、大きかったのではないかと思われますし。
また、上野晴朗先生も指摘しているように、こうして三条夫人やお菊御料人などを通じて、京都の公家と武田家が強く結ばれたことは、京文化を直接甲斐に持ち込む結果となり、その過程から一蓮寺での歌会のような雰囲気が、しばしば持ち込まれた部分も、あったのでしょうし。

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2018-11-07

戦国女性の名前 お江の名は姉の淀殿の「茶々」と同じく、都風の名前

今回も、戦国女性の名前について、取り上げます。私も既に以前の記事でも触れているように、淀殿の名前の「茶々(ちゃちゃ)」は、明らかに公家女性の幼名あるいは愛称であるらしいことがわかっています。
この淀殿の姉妹には、お初とお江がいます。
それからこの「初」というのは、文字通り、最初の子供に付けられることが多い名だったようです。そして三女のお江の方の、名前についてですが。このお江の、この「江」という名前の表記に関しては、いくつかの説があります。
その一つは、彼女が近江、つまり江州生まれだから、「江(ごう)」と名付けられたというものです。しかし、角田文衛氏の「日本の女性名」の、中世から江戸時代頃までの、数多くの女性名達の例を見ても、意外にこうした出身地の地名にちなんで付けられたらしい女性名は、特に見当たらないように思います。


こうした傾向からしても、やはり、私はこの「お江」という表記は、福田千鶴氏の指摘しているように、お江が江戸に嫁ぐことになったので、「ごう」と同音でも読め、更に江戸にちなんだと思われる、「江」が付けられたとする方が必然性が高いように感じます。
それから彼女の「ごう」という名前については、江戸時代成立の「太閤素性記」の中では、「小督(おごう)」という字で、表記されています。そしてこの「小督」については、これも続いて福田氏からの、これを「こごう」と読めば、宮廷や上級武家の女房を表す名と指摘しており、確かに「平家物語」の小督局などでもわかるように、代表的な宮廷女房などの名前の一つとして、しばしば目にする感じです。しかし、この「江」や「小督」の表記についても、福田氏のいずれも、一次的な史料での使用例を、確認できていないとの指摘があります。


いずれにせよ、彼女の名前自体が「ごう」であったこと自体は、まちがいがないようです。
それから私もこの点については、以前の記事の中でも、何回か書いているように、当時の女性名にとって重要なのは、その名前の表記する文字よりも、名前の発音・読みの方だったようなので。だから「日本の女性名」の中でも、お江とお初も、それぞれひらがなで「ごう」と「はつ」として、書かれていますし。
そしておそらく、このお江の「ごう」という名前の由来自体は、やはり都風・京風の名前であったようです。


実際にも、公家の山科言継の「言継卿記」の中にも、ひらがな表記の「ごう」という女性名が見られますし。それに、近江は地理的にも、京都と近いので、より、このおごうに京風の名前が付けられる必然性も、感じられるようにも思いますし。また、既に姉の淀殿の名前にも、こうした「茶々」という、京風の名前が付けられていることから考えても、妹のお江も、そういう風に名前を付けられていても、不思議ではないと思いますし。それに、京都の本願寺の顕如の幼名も、「茶々」でしたし。
また、このことから、この「茶々」は、男女の子供両方に使われていた名前であったことも、わかります。

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2018-10-23

戦国女性の名前、接頭語「お」の起源と名前

日本の女性名、特に二音節の女性名に接頭語「お」を付けて、尊敬や親愛の気持ちを表わす用法は、中世では一般的だった。この親愛や尊敬を表わす接頭語としての「お」は、平安時代には、マ行音で始まる語の上では、「お」の形をとっていた。「おもと」、「おまへ」、「おまし」。しかし、他の音の語では、「おほん」、または「おむ」、「み」の形で言われた。「お」と訓む「御」が全ての語の上に付くようになったのは、鎌倉時代以降である。「おむ」、「おほむ」は、平安時代には尊敬、丁寧を表わす接頭語として盛んに用いられていたが、これを女性名に冠することは、これを女性名に冠することは、南北朝時代に始まった。


そして鈴木換卿の「漫画随筆」の中で、一般的には、女性名の接頭語は「太平記」の菊亭の妻「御妻」が始まりであるように考えられている。しかし、「古事類苑」の編者から、この「御妻」は上臈女房の候名の一つで、女性の実名を指すものではないことが指摘されている。
更に実際にも、「薩戒記部類」の中には、明らかに宮廷女房の名前の一つとして「御妻」という名前があり、「御妻」が固有名詞ではないことがわかる。
それから、戦国時代の女性で「御妻」と言えば、大内義隆の正室万里小路貞子の侍女で義隆の側室になった、小槻伊治の娘である「おさい」がいるが。しかし、こうしたことから、この女性のこの「おさい」も、実名ではなく、彼女の実名は別にあったと考えられる。


また他に、この南北朝時代から新たに見られる名前としては、「今子」や「御今」という名前が見られるようになる。
例えば大外記中原師茂の家に仕える「御今」など。また、山科家の「御いま」や「いま」など。おそらく、この「御今」は「御今参」に由来する呼び名だと考えられる。この名前の女性では、足利義政乳母で側室の今参局(御今)が大変に有名である。また、おいまという名では、この別名を持つ、豊臣秀次側室で最上義光の娘の駒姫がいる。また、このように既に南北朝時代から、この「おいま」という名が、代表的な宮廷女房を中心とした、京風の名前であることから考えても、やはり、私が以前の記事で考えているように、駒姫の「おいま」という名前も、豊臣秀次の側室として相応しい名前として、新たに駒姫に与えられた名前の可能性が考えられる。
そしてこの接頭語の「お」は、鎌倉時代末期に、「御(於)××女」の形で現れ、次いで「女」が脱落して「御(於)××」が成立した形跡が確認されている。長い伝統を有する「××女」という名前に対して、「御××」は柔らかで親しみのある呼称であるため、一般の趣向に反映され、室町時代を通じて、しだいに普及したものと想像される。


参考文献

角田文衛「日本の女性名 中 教育社」

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2018-10-15

信玄次男信親の教育を長延寺の実了に任せたのは、母三条夫人の要望も関係?

武田信玄と三条夫人の次男の信親(龍宝)は、周知の通り、盲目でした。生まれながらに盲目だった、あるいは病にかかり、盲目になったなどの、いくつかの説はありますが。
とにかく、彼が盲目であったことは、確かなようです。そしてこのため、この信親は武田館で他の兄弟妹達と一緒には育てられずに、初めは長延寺の実了師慶の許に託され、半僧半俗のまま成人し、龍宝と名乗るようになりました。つまり、長延寺で全面的に生活していた訳ではなく、後に「御聖道様」と呼ばれ、その住居は武田館の裏手の日影という場所に、叔父である武田信廉の屋敷の北に与えられました。実際にも、その痕跡として小字に「聖道小路」という場所があり、その墓とされる五輪塔の並ぶ墓域も存在しています。


そして信玄により、次男信親の教育係に選ばれたのが、この長延寺の実了師慶です。
の実了師慶は、関東管領である上杉憲政の一族であったため、彼は北条氏康に追われて、信玄を頼ることになった。そして信玄は実了を手厚くもてなして迎え入れ、天文十六年に甲府一蓮寺の西に長延寺を再興させ、やがて彼に次男信親の教育を託すことにした。
更にこの点について、上野晴朗先生は、この幼少の信親の教育が識見豊かなこの実了に託されている、こうした次男信親への父信玄の行き届いた配慮には、母の三条夫人の要望も関係してのことだと想像されるとも、指摘しています。


確かに、彼ら両親からすれば、信親が武田信玄と正室三条夫人との次男として生まれながらも、盲目というだけでも不憫だし、気がかりでもあったであろう点に加え、このように、盲目であるために、他の兄弟妹達と離れて暮らさなければならないことも、一層不憫さを感じていたと思われますし。
更に上野晴朗先生も指摘しているように、特にこの次男信親に対応しては、母の三条夫人が信玄に細かい配慮を頼んでいた可能性は、十分にあり得ると思いますし。そして更に続けて、上野先生は血の気が多く、猪突猛進傾向があり、またしばしば、信玄にも背いたことがある飯富虎昌が、様々な配慮が優先されての、長男義信の傅役として選ばれた点とは、好対照であるとも指摘しています。更に彼は信玄のお伽衆にも加えられ、軍使としても活躍している。
また、実了は信玄が伊勢長島の一向一揆などとの連絡を取る際に、その仲介に入るなどの、こうした外交面でも大きな働きをしている。


そして一時、信玄が娘の菊姫が八歳か九歳頃の時に、伊勢長島の願証寺の嫡子左堯との婚約もさせているように、信玄は一向宗とも関わりがありました。西上作戦の一環として、織田信長の牽制策として、一向一揆との協力を必要だったため。
そしてそれには、当時信長と激しく対立していた石山城の一向宗の総帥の顕如とは、彼の妻如春尼が信玄の正室である三条夫人と姉妹同士であったこともあり、特にこうした外交戦を巡り、親密さが増し、顕如が股肱と頼んでいた伊勢長島の願証寺と信玄との間に、政略結婚の話が持ち上がったものだと思われるとの上野先生の指摘です。そして実了に、信親の教育を任せたことから、信玄のこの盲目の次男への思いやりがよく現れているとも、指摘しています。



確かに、やはり、こうした信玄の実了への援助を通じた一向宗の保護、更にこの実了が信玄の下で外交面でも少なからぬ活躍をしている人物であることから見ても、それだけ、信玄が大変に信頼している人物に、幼少の次男信親の教育を任せたということでしょう。
それに、信玄と三条夫人ら両親のこの盲目の次男への配慮も窺えます。
とはいえ、兄の義信の方にも、傅役の飯富虎昌とは別に、当時の各戦国大名の息子達の幼少時に付けられる、儒学や禅や帝王学などのようなことを教えていた、信玄にとっての岐秀玄伯、また今川義元にとっての、太原崇孚のような僧侶が付けられていたのではないかとは考えられますが。それに、嫡男の教育のために、信玄や三条夫人の、この方面での想像される、広い人脈などを利用しないはずがないとも、思いますし。

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2018-10-09

想像される、武田義信の各教養

武田義信は武田家の嫡男であり、更に母の三条夫人は清華七家の一つである、名門公家の出身。
そして父の武田信玄も深い教養ある武将として、有名である。当然、こうした両親を持ち、更に嫡男として育てられた義信も、こうした両親の影響などもあり、かなり高い教養を身に着けていた人物であった可能性があるのではないだろうか?ただ、本当に彼に関する文献や記録などが少なく、こうした環境から、おそらく、彼が身に着けていたと想像される具体的な教養の内容までを、知ることができないのは、極めて残念である。
それから、彼の周囲の環境から考えても、義信はこれらの教養を身に着けるのには、有利であったと想像される。当然、この義信も、儒学、和漢連句、漢詩、茶の湯や鷹狩りなどの、当時の武将達にとっては必須とされた、これらの教養は一通り、習得していたのではないかと想像されるし。


既にこのように、義信の両親も、高い教養を備えた人物であることに加え、父の信玄の政策により、甲府などには、各地から優れた禅僧が集まっていた。
こういった、義信の周囲の環境も、ますます、彼ら禅僧達との交流を通して、義信が儒学や五山文学として、独自の発展を遂げた漢詩などを学ぶのにも、都合が良かったのではないのかと考えられる。
更に他にも、義信が和歌や茶の湯を学ぶのにも、母の三条夫人が京都の公家出身であったことによる利点も、大きかったのではないかと想像される。それに他にも、数回に渡る、公家の甲府下向などのこともあり。
また、甲府内の義信関連の数少ない記録などの義信に関する記録は、軍事・領国経営関連のものばかりで、文化面での記録は皆無ではあり、このように、義信の具体的な作品や記録までは現存してはいないものの。
しかし、当然、彼も信玄の嫡男として何らかの和漢連句の会などの歌会や茶会などには、彼も参加していた可能性も、十分に考えられる。


それに、考えてみれば、この点については、これまで私も何度か指摘しているように、おそらく、義信事件も大きく関係し、元々、かつては武田信玄の後継者という立場でありながら、不自然な程に彼に関した記録などは少なく、相当数が故意に抹消された形跡も、強い。
だから、このような義信に関する、現在の史料状態から、これらはつい、盲点になってしまいがちな部分ではないかとは考えられるが。
しかし、当時の甲斐国内には信玄の招きにより、多くの優れた高僧が集まっていたこと。更に義信の父母である信玄や三条夫人と彼らとの交流から考えても、義信と彼らとの交流も、存在していた可能性も、大いに考えられる。特に、信玄夫妻と何かと親しい交流があったようである、快川和尚のことに関しては、義信も何かと聞く機会も、多かったのではないかと想像される。


また、この快川和尚は弘治元年に信玄から甲府に招かれており、義信は十五歳だった。そして既に、当時義信は元服も済ませ、更に今川義元の娘の嶺松院と結婚しており、事実上、父の信玄の後継者としての立場を確立していた。また、義信がこうした立場になったことからも、自然と信玄の嫡男として、彼が更に儒学や漢詩などの教養を快川和尚などの禅僧との交流を通して、学びたいと考えたとしても、不思議ではない。
また、おそらく、以前から、このように、快川和尚は義信の両親である信玄や三条夫人との交流だけではなく、彼らとの繋がりを通して、彼らの息子である義信との間にも、交流が存在していたと考えられる。


そして、だからこそ、快川和尚も、信玄と義信父子の対立が発生し、更に義信事件の発生後、義信が東光寺に幽閉されてしまったと想像される時期である、永禄九年の六月二十二日の長禅寺の春国光新宛ての書状の中で、信玄は義信を理解しようとはしないなどと、義信の言い分の方にも、一定の理解を示すようなことも、言っているのではないだろうか?こうした発言も、日頃から義信とも、その交流を通して、彼についても、快川和尚が理解をしていた人物だからだろう。
他にも、永禄九年の十月に行なわれた義信の葬儀の中で、当時の長禅寺の住職であり、また快川和尚と共に、信玄と義信の和解を試みた禅僧の一人でもある、春国光新。また、この春国光新は永禄十年十月の義信葬儀での導師と「下火」も担当しており、彼が義信について、「美玉良金」とその彼の優れた資質について語る内容の言葉も、これも実際に日頃から、義信について知っていた禅僧だからこそ、述べることができた言葉ではないかとも、思われるし。
それに、こうして、快川和尚やこの春国光新、そして東光寺の藍田恵青らの禅僧達が、信玄と義信との和解に尽力したのも、彼らがこの義信とも、以前からの交流があったからということも、大きく関係していたのではないかと考えられる。

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プロフィール

KAGARISAYO

Author:KAGARISAYO
私は長年の間、武田信玄正室三条夫人について、その研究を続けています。そして私は、三条夫人の復権と積極的な再評価を目指しています。
私は昔から三条夫人についての、その数々の否定的な扱いや評価には、納得がいかないものを感じ続けていました。


どうもその恒例の彼女の悪女扱いも、彼女が個別でそのように捉えられているというよりも、徳川家康正室でこれも悪女だとされる、築山殿と同一視されている気配を何かと感じてしまうし。更にその内に、これはぜひとも自らの手で、三条夫人の実像、そして彼女が武田信玄正室として、どう生きたのか?
その生涯について、解明したいと思うようになりました。


また、彼女の他にも武田勝頼生母の諏訪御料人など、武田信玄関連の女性達については、史実に基づかない、捏造された逸話ばかりが流布しており。
私はこうした現状を憂慮し、ぜひ、なるべく史実に沿った情報の発信をしていきたいと思っています。それから、このブログ名になっている「西方の一美人」というのは、武田信玄もその学識や人物に深く傾倒し、親しく交流していた名僧快川和尚がその追悼の言葉の中で三条夫人を評した「愁殺す、西方の一美人」という一節。
ここから採ったものです。


私の武田信玄正室三条夫人のサイトについての、連絡先変更のお知らせ
すみませんが、今後私のサイトの方のログインができなくなってしまったので、連絡先の変更のお知らせです。
今後サイトについての感想などがある場合は、こちらのブログのメールフォームの方からお願いします。

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