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2018-09-12

細川ガラシャの侍女清原マリアの父枝賢の弟清四郎も、大内義隆や三条公頼と同時期に死んだ逸話

九月と言えば、九月一日は三条夫人の父の三条公頼の命日です。
大分過ぎてはしまいましたが。
それから、来年は大河ドラマの主人公が明智光秀のようなので、多少はその娘の細川ガラシャにも関連がある感じの話ということで。天文二十年に起きた、大寧寺の変で、大内義隆や三条公頼と共に命を落とした公家の中には、細川ガラシャの侍女の清原マリアの父清原枝賢の弟だとされる人物の、清四郎がいたという話があり。
三条公頼は、天文二十年の九月一日に、山口の大内義隆の許に滞在中に、義隆の重臣の陶隆房に襲撃され、巻き添えを食う形で殺害されています。
そしてこの大寧寺の変の犠牲者となり、他にも殺害された多くの公家の中には、あの細川ガラシャの侍女であり、共にキリスト教を信仰していた、清原マリアの父である清原枝賢の弟である、清四郎という人物もいたとされています。


大内義隆は学問や有識故実なども、公家から大変に熱心に学んでおり。そして彼は、三条夫人の家の転法輪三条家の親戚であり、有識故実に詳しかった、当代の有名な文化人である三条西実隆や山口に滞在中の儒学にも関わりがあり、そして三条公頼と同じく、日頃の義隆の和歌仲間までもあったと想像される柳原資定や広橋兼秀などから、義隆は熱心にそれらの知識を学んでいました。
それに兼秀は年不詳の八月十七日付けの義隆宛ての書状の中で、秋季の衣更えの決まりはないと義隆に教えています。
しかし、義隆は本当にそうなのかと不審を抱き、更に質問をしています。


また他にも、高倉冷泉範遠から衣紋の装束のことに関する指導を受け、更にこれも大寧寺の変で悲劇的な最期を遂げた、持明院基規からは平緒についての教示を受けてもいます。そしてこの大内義隆と清原枝賢との関わりですが。
義隆は儒学についても、意欲的に学んでおり、「義隆記」によると山口滞在中の、清原枝賢の父である清原業賢や小槻伊治から儒学の講釈を聞いたとあります。
その上、更に京都の業賢の父清原宣賢に銭五万疋を贈り、四書・五経の書の抄である「四書五経諺解」を借りて写させたそうです。そして天文十五年の春から同十七年にまでには、この清原業賢や小槻伊治を講師として、柳原資定や持明院基規、在将、医師の竹田定慶、山口神光寺僧達と四書・五経の輪読会を開き、義隆自らも講義したといわれています。
それに実際にも、この頃、彼らは山口に滞在中であったため、この記述は事実と見てまちがいないようです。それから、清原枝賢自身も、この大内義隆や松永久秀らの儒学の師になっています。
代々、清原家が儒学も教えていた、明経博士の公家であることもあり。


そして天文二十一年に、大寧寺の変が起こり、義隆家臣の陶隆房軍が築山館を襲撃した際に、この清原枝賢の弟の清四郎は、義隆に法泉寺に落ち延びることを勧めたそうです。しかし、彼も禅僧姿で逃げる途中に、民家の床下に潜んでいた所を槍で突き殺されてしまいました。それからこのように、大内義隆は清原家の公家とは代々、学問を通じての交流がある訳ですから。だから、そんな彼の身近に、清原枝賢の弟である清四郎という、清原枝賢の血縁者が、大寧寺の変の発生当時に、こうして侍っていても、不思議ではないかもしれませんね。


ただ、この清四郎という人物の存在は、清原家の系図からは確認できないようです。それに確かに、この清四郎という名前も、あまり公家らしくはない名前のような。このように、この逸話の信憑性やこの人物の実在性については、かなり疑問が残るようですが。
しかし、清原家が大内義隆に儒学を教えていたこと自体は事実のようですし。そして彼らのそうした関わりから生まれてきた、この枝賢の弟だとされる人物の清四郎の、こうした逸話なのかもしれないですね。
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2018-09-05

武田義信の「富士御室浅間神社」に奉納した鞍

「富士御室浅間神社」と言えば、武田信玄が長女の黄梅院の安産祈願を数回に渡り、行なっていることで知られていますが。
そして信玄がこの神社を武田家祈願所と定めていることもあり、他にも武田義信にも信仰されていたようです。
上野晴朗先生が「信玄の妻 円光院三条夫人 新人物往来社」の中で、これはおそらく、義信の物ではないかと指摘している、永禄五年の二月吉日に奉納されている、馬の乗鞍があり、花押もあるそうです。それから義信は、他にも山梨県の御坂町の美和神社にも、花押のある鞍一式を奉納しています。


そしてこうした、義信のこれら神社への、馬の鞍奉納の目的ですが。やはり、馬の鞍、ということから、その目的としては、武運を祈願して、ということでしょうね。他の馬の鞍の神社への奉納の例としては、源頼朝が愛知県豊橋市の鞍掛神社に、馬の鞍を奉納したというものがありますし。
それから、この鞍掛神社には、頼朝の駒止の桜伝承もあるようですが。この駒止の桜伝承って、あちこちにありますね。
源頼朝の場合も、静岡県静岡県富士宮市の狩宿にも、「狩宿の下馬桜」と呼ばれるものがありますし。


鞍掛神社の祭神は、宇迦御霊神、応神天皇、豊宇気比売神、菅原道真で、例祭日は三月二十六日。
鞍掛神社は、元は米山大明神と呼ばれており、文治元年(1188年)までは、現在地の南にあった。建久元年(1190年)、全国を平定した源頼朝が上洛の途中にこの神社を通り、鞍を奉納して武運長久を祈願したため、それ以来、鞍掛神社と名を改めたと伝わる。神社の前の道は、当時の鎌倉と京都を繋ぐ、鎌倉街道であったとされる。更に神社から東北の方向には、頼朝が馬を止めて休んだとされる、駒止の桜がある。

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2018-08-29

武田信玄と三条夫人の長女黄梅院の法号の由来は何か?

信玄と三条夫人の長女黄梅院の、この「黄梅院」という法号の由来についてですが。
黄梅から採った、こうした彼女の法号は珍しく、印象的です。
そしてその由来は、どこから来ているのか?
元々、この黄梅院自身がこの黄梅の花を好んでいたり、またどこかこの花を思わせる雰囲気のある女性だったからなのか?
または上野晴朗先生が「信玄の妻円光院三条夫人」の中で、このようなことを考えておられました。
この法号を見るたびに、自分はその母三条夫人がその葬儀語録の中で、しばしば梅花に例えられるのを思い返して、この一家の女性方の雰囲気を見る思いがした。
おそらく大泉寺の安之和尚もそのことをよく弁えていた。あるいは迎春花として、あまりにも痛ましい挫折を思い描いていたのかもしれない。


上野先生が以上のように考察しているように、確かにあるいは黄梅のその迎春花としての姿から、この花の名前からその法号を与えられた、黄梅院の夫と離縁させられることになり、甲府に戻らねばならなかった、その痛ましい、その彼女の挫折を思っての、この法号なのかもしれません。そして更に言えば、通常こうした法号というのは、法諱と同じく、生前に出家して仏の弟子となる、または死んでから仏の弟子になるための、大切なものでもあったのでしょうし。また、こうした点から考えても、この法号の方もその人物の人柄など本人に関わる事柄から選ばれ、なおかつ肯定的な意味のあるものが選ばれて、付けられるのではないかと想像されます。


そしてこの黄梅の花は、中国では旧正月の二月頃に、その花が咲き出すので「迎春花」と呼ばれているそうです。
それから考えると、この黄梅院というのは、悲しみや苦しみに耐えて、いつかそのまま、春を迎えられるように。つまり、まだ寒い中に、こうして一足早くに咲く黄梅のように、この黄梅院自身も、やがて春を迎えられるというような、希望を取り戻して欲しい、そんな願いが込められた法号だったのではないか?と私には思えます。


そしてそれはまた、黄梅院自身の願いでも、あったと考えられますし。更にまた、それは失意から出家を望む娘の黄梅院にこの大泉寺の安之玄穏を紹介した、母の三条夫人の願いでも、あったのではないでしょうか。
当時のこの黄梅院の厳しく、痛ましい運命を思うとやはり、そうしたことも配慮されての、このような法号になったのかもしれません。
私にはこの「黄梅院」というのは、やがて黄梅院が心に希望を取り戻すことができるように、という願いが込められて、付けられた法号だったのではないか?と思えてきました。


こうして法号の方では出家した黄梅院自身の願いであり、またその出家の目的でもあったのではないか?と考えられる、心に希望を取り戻したいという願いが。
そして彼女の雅号の「春林」や法諱の「宗芳」の方では、その母である三条夫人の葬儀での追悼の言葉の中や、更に彼女のその花という意味の法諱から想像される、この三条夫人の春や花を思わせるのどかで和やかな人柄とどこか似た、この長女の黄梅院の人柄が表わされているのかもしれません。


また、こうして考えていけば、確か出家の直接の理由としては、夫の北条氏政と無理やり離縁させられて、子供達とも離れ離れになったことによる、彼女の失意から、更にこうして出家することにより、救いを求める気持ちからなのでしょうが。しかし、このように想像される、この「黄梅院」という法号に込められた意味から考えると、出家することにより、自分の心に平穏さが訪れるように。更にその内に、自分の心に希望を取り戻せるようになりたいという、前向きな意味も伴った、彼女の出家でもあったのかもしれません。


例えば、いつまでも氏政や子供達との別離を悲しむのではなく、その内に甲府から、彼らの無事と幸せを願うことができるようにとでもいうような。おそらく、出家したとはいえ、黄梅院の心から完全にこうした夫や子供達の存在がなくなることはなかったでしょうし。
そしてそんな彼女からすれば、こうした心境に至れることが、彼女にとっては、その一番望ましい姿であったと想像されますし。
そして黄梅院がそんな気持ちからの出家を目指すようになったのには、当然母親の三条夫人の助けもあったのではないかとも、想像されますし。それに三条夫人も、甲府に戻った娘の黄梅院がある程度、精神的な落ち着きを取り戻してからの出家を、勧めたことだと考えられますし。


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2018-08-26

やはり、信玄母大井夫人が帰依した禅僧だから?三条夫人が黄梅院に安之玄穏を紹介した理由

前回の記事の続きのような内容ですが。前回の記事で私が書いているように、どうやら永禄十一年に甲府に戻ってきた、長女黄梅院のその出家のための導師として、大泉寺の安之玄穏を紹介したのは、母の三条夫人であったようです。私もこれまでの記事でも、信玄の母で黄梅院の祖母である大井夫人が安之玄穏に帰依しており、生前に自分の葬儀の予修を行わせているなどの、この彼と大井夫人との関係から、三条夫人も娘に紹介しようかと思ったのかもしれないと書きましたが。


ただ、それにしても、この安之玄穏よりも知名度の高い高僧も、当時の甲府にはたくさんいたと思われるのに、なぜわざわざこの安之玄穏をという疑問が、私の中では依然として残ります。既に私も何回か指摘してきたように、信玄のその仏教・文化振興政策の一つとして、甲斐国に各地から多くの優れた禅僧を招いていたこともあり。(そしてそれが大きく結実したのが、甲府五山でしょう。)
もちろん、信玄のこうした政策には、正室三条夫人の協力も、あったと想像されますが。そしてこのように、信玄の政策から、甲府内には多くの著名な高僧が集まっていたことから考えても、なぜ三条夫人は大泉寺の安之玄穏を、娘の黄梅院の出家の導師として、紹介しようと思ったのか?という疑問についてですが。


そして私はこれはやはり、この安之玄穏が黄梅院の祖母の大井夫人が帰依していた禅僧という点が、一番重視されて選ばれたのか?と感じます。
安之玄穏が祖母の帰依していた禅僧という点が、黄梅院にも何となく安心感を与え、更に彼女の中に、安之玄穏に自分の出家の導師も頼みたい気持ちを起こさせる所があったのではないでしょうか?大井夫人のその生前には、孫として黄梅院も可愛がられていたでしょうし。更に黄梅院の中の、そうした過去の祖母との記憶も埃まっての、この大井夫人と黄梅院という、祖母と孫のこの安之玄穏への帰依になったのかもしれません。


当時、武田信玄夫妻が茶会を催した各寺院

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2018-08-22

義信や黄梅院に示している、母親としての三条夫人の愛情

衆知の通り、三条夫人は子供達のことでは、多くの不幸を体験しています。まず、長男の義信は嫡男として立派に成長し、おそらく母である三条夫人の期待にも、見事に応えてくれました。しかし、その内に義信は父の信玄と対立するようになり、最終的には廃嫡されて、自害。
次男の信親は盲目。そして三男の信之は早世。長女の黄梅院も、信玄の駿河侵攻を契機に起きた三国同盟の破綻の影響を受け、離縁されて出家。更にそれから翌年の永禄十二年に死去。


その葬儀の追悼の言葉の中では、禅僧達から口々に、その良き妻、良き母としての様子が語られている三条夫人ですから、そんな彼女にとっては、特にこれらの子供達の不幸は、大変に辛いものであったことが想像されます。でも、三条夫人が子供達に母親として示した愛情は、わずかながら当時の記録や文献などから、垣間見ることができます。


まず、永禄九年の十一月、既に義信が東光寺に幽閉されていた時期と想像されるこの時期、母親である三条夫人が義信の元服時の鎧であったと考えられる、赤皮具足を美和神社に奉納して、おそらく義信の安全を願い、祈願をしている記録が存在しています。それから、これは私自身が最近発見したことですが。
どうやら「頌文雑句」によると、信玄の母であり、三条夫人には義母である大井夫人が生前に行なっている、自分の葬儀の予修の仏事の導師がこの大泉寺の安之玄穏であること。おそらく、こうした関係から、永禄十一年に離縁され、甲府に戻ってきた長女の黄梅院の出家の際の導師である安之玄穏は、母親である三条夫人がおそらく出家を望む黄梅院からの相談を受けて、彼女に紹介していたようです。
それから、離縁されて甲府に戻ってきた、この黄梅院の具体的な消息を伝えているような記録は残っていません。ただわずかに、数少ない記録から、以下のような彼女の消息が窺える程度です。


おそらくこのような形で離縁されて、夫の北条氏政や子供達と離れ離れになった失意からの出家。
そしてそれから、このように突然夫や子供と生き別れになった悲しみからの衰弱による病死。
その後に、父である信玄が娘の黄梅院のために、その菩提寺の巨摩郡竜地に黄梅院を創設、そして元亀元年十二月には、大泉寺の塔頭に格付けした黄梅院領を大泉寺に寄進しています。それからおそらく、小田原に多くの幼い子供達を残して、甲府に戻らねばならなかった、母としての黄梅院の気持ちを思い、この大泉寺の本尊を子安地蔵と定めていること。これくらいのことしか、わかりません。


しかし、こうして甲府に戻ってきた黄梅院とそんな失意の娘を母親としての精一杯の愛情を示し、迎えたであろう母の三条夫人との、その後の親子としての愛情や交流の様子。
それらをこうして、わずかに想像することができて、私は良かったです。失意の内に甲府に戻ってきた、この長女の黄梅院にも、三条夫人のその母親としての愛情は、やはり注がれていたのだなという印象で。
それは確かにお互いの中での、再会するまでのそれぞれの印象としては、十四年前に別れた時の、まだ現在よりは若い母に幼い娘という印象であったろうと想像されますし。
おそらく、それぞれの様子の変わりように、これまで別々の場所で暮らしてきた、その長い年月の隔たりを感じ、彼女達も最初は戸惑い、ぎこちない感じであったかとは想像されますが。


でも、再び共に日々を過ごす中で、しだいに長い年月による、そうしたぎこちなさもなくなっていって、彼女達の間では昔のように再び親子らしい交流が戻ってきたのではないでしょうか?それにそんな中での、その想像される、こちらの仏教方面に関しては詳しく、頼りになる、またとない相談相手であったと思われる、母の三条夫人への、黄梅院からの出家のための導師についての、相談だったのではないでしょうか。


それに黄梅院が出家してからも、母の三条夫人との交流は続いていたのではないか?と考えられます。
思わぬ形で突然、夫や子供と引き離された悲しみからは、黄梅院はついに立ち直れなかったのだろうとはいえ、最後はこうした母親の愛に見守られての死だったのが、せめてもの救いだったのではないかと私には思われます。それからこれは、三条夫人に関する、そうした具体的な記録という形としては、残ってはいないとはいえ。また実際にも、次男の信親の眼病平癒祈願と黄梅院の安産祈願については、当時の慣習として、国主であり、父である信玄が代表し、こうしてそうした祈願を行なっている人物になってはいますが。
しかし、当然、彼ら子供達の母親である三条夫人も、信玄同様に子供達のために、心の中で祈願していたことでしょう。

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プロフィール

KAGARISAYO

Author:KAGARISAYO
私は長年の間、武田信玄正室三条夫人について、その研究を続けています。そして私は、三条夫人の復権と積極的な再評価を目指しています。
私は昔から三条夫人についての、その数々の否定的な扱いや評価には、納得がいかないものを感じ続けていました。


どうもその恒例の彼女の悪女扱いも、彼女が個別でそのように捉えられているというよりも、徳川家康正室でこれも悪女だとされる、築山殿と同一視されている気配を何かと感じてしまうし。更にその内に、これはぜひとも自らの手で、三条夫人の実像、そして彼女が武田信玄正室として、どう生きたのか?
その生涯について、解明したいと思うようになりました。


また、彼女の他にも武田勝頼生母の諏訪御料人など、武田信玄関連の女性達については、史実に基づかない、捏造された逸話ばかりが流布しており。
私はこうした現状を憂慮し、ぜひ、なるべく史実に沿った情報の発信をしていきたいと思っています。それから、このブログ名になっている「西方の一美人」というのは、武田信玄もその学識や人物に深く傾倒し、親しく交流していた名僧快川和尚がその追悼の言葉の中で三条夫人を評した「愁殺す、西方の一美人」という一節。
ここから採ったものです。


私の武田信玄正室三条夫人のサイトについての、連絡先変更のお知らせ
すみませんが、今後私のサイトの方のログインができなくなってしまったので、連絡先の変更のお知らせです。
今後サイトについての感想などがある場合は、こちらのブログのメールフォームの方からお願いします。

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