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北条氏政正室黄梅院殿は甲府ではなく、小田原で死去した可能性

これまでは黄梅院殿は、信玄の駿河侵攻により怒った北条氏康により、北条氏政と離縁させられ、甲府に戻されたとされてきましたが。しかし、これに対して「武田氏研究 第59号 北条氏政正室黄梅院殿と北条氏直 岩田書院」の中で浅倉直美氏は疑問を呈し、実際には黄梅院殿は甲府に戻されず、小田原で死去した可能性が高いとしています。
根拠としては、武田氏研究佐藤八郎氏が離縁されて甲府に戻り、出家して一年後に死去した黄梅院殿のために、信玄が知行地として給された南古庄内十六貫二百文が逝去後に黄梅院の造営料と維持費に充てられたという解釈を浅倉氏は初めてこの説を唱えた佐藤八郎氏は解釈したのだろうがと指摘。しかし、これは「尼知行」ではなく、「局知行」である。
おそらく、黄梅院殿の花嫁行列に従い共に小田原入りし、小田原城内南殿で黄梅院殿に仕えていた女性だと思われる。
このように、この南古庄内十六貫二百文は黄梅院殿に仕えていた局の知行地として与えられたもので、黄梅院殿本人が甲府に戻ったことを示す史料は見当たらないことになる。

それに確かに氏康が信玄の駿河侵攻、そしてされにより、今川氏真に嫁がせていた娘の早川殿が輿にも乗らずに逃げなければならなかったことに憤慨していたのは事実だが、既に隠居の氏康が当主の氏政の正室を無理に離別させるのは大名家の秩序としてあり得ないこと。また、黄梅院殿が大泉寺の安之和尚を導師にし、出家し、死去後には信玄が安之和尚とはかり、黄梅院尼を開基とする大泉寺塔頭黄梅院を建立したという点に関しても、大泉寺の住持は、天文二十年から永禄十二年十一月までは四世の角王自牛、それから天正六年までは五世の甲天総寅である。


更に佐藤氏の指摘するように、北条家での黄梅院建立が武田家の同院建立よりも五年も遅れた天正三年だというのも、おそらく、氏政文書の佐藤氏の解釈違いだろうと指摘。
そしてこの天正三年七月十日と正月十四日の氏政発給文書は、いずれも黄梅院住職について、養珠院住持が努めるという内容であり、元亀元年の武田信玄判物のように造営に関する文言が見られないことから、おそらく、これ以前に黄梅院殿が死去して間もなくして、早雲寺塔頭の黄梅院が建立され、天正三年の黄梅院殿七回忌にあたり、住持の兼任がなされたものだろう。
もし佐藤氏の主張するように信玄が甲府で亡くなった娘の供養のために塔頭を造営したのなら、その時期は没日から一年以上も経た元亀元年十二月というのは不自然で、没日後間もなくであってしかるべきではないのか?



確かにこれらの浅倉氏の反論及び再考察は、いろいろと説得力があると私も感じるのですが。
確かに黄梅院殿が死去した時期の大泉寺の住職は、実際は安之玄穏ではなかったことなど。
また、信玄が甲府で亡くなった娘の供養のために塔頭を造営したのなら、その時期は没日から一年以上も経た元亀元年十二月というのは不自然で、没日後間もなくであってしかるべきではないのか?という点。
そして氏政の文書の佐藤氏の解釈違いの可能性など。

それにしても、実際には黄梅院殿が小田原で死去していた可能性が高いとするなら彼女のためにも、三条婦人のためにも、喜ぶべきことではありますが。それにしても、やはり、二十七歳という早すぎる死であり、母の三条夫人の悲しみと落胆も大きかったとは想像されますが。それに甲斐の方の黄梅院の本尊が小安地蔵なのは、やはり、幼い子供達を残して死ななければならなかった娘の黄梅院殿の気持ちを信玄が配慮してのことなのではないでしょうか。



それから武田氏研究者の佐藤八郎氏の黄梅院殿は甲府で死去説が四十年もの間、確固とした通説として再考察もされないままだったという浅倉直美氏の指摘でも思いましたが。
三条夫人に関しても、同じくらい変化がないままですね。研究の世界でも。完全に徳川家康・築山殿の不仲や築山殿の悪女の人物像をただなぞるだけのまま、放置されたままですね。元号も変わったし、もうさ来年の二〇二一年には、三条夫人の生誕五百年にもなるというのに、いまだに三条夫人の再評価や復権が本格的に行われる様子がないのも、私は大いに不満と疑問を感じますし、不当だとも感じます。以前よりは高慢で嫉妬深いという、いかにも紋切り型で築山殿の悪女イメージそっくりな人物像は以前よりは改善はされたかもしれないものの、相変わらず、戦国研究者達も信玄側室で武田勝頼生母の諏訪御料人ばかりを重視し、一方、正室の三条夫人の方は信玄とは不仲で正室としても無能な存在として無視、軽視する傾向も基本的に変化がないと思いますし。



しかし武田氏研究の権威でもある、上野晴朗氏の労作の「信玄の妻 円光院三条夫人 新人物往来社」でも、三条夫人の生家の転法輪三条家は大変に仏教への信仰心が深い公家であり、おそらくそのせいもあり信玄の「甲府五山」などの文化や宗教政策にも深く関わり、協力していた形跡が指摘されています。
更に三条家の系図を見ても、大勢の僧侶を輩出しており、また、私が以前の記事でも触れているように、京都の本法寺の日尭上人は長谷川等伯の絵でも有名ですが、三条公頼の弟で三条夫人の叔父です。
やはり、彼が住職に選ばれたのも、転法輪三条家は大変に仏教への信仰心が深い公家というのが広く知られていたためでしょう。
そしてこのような環境にあった三条夫人が信玄の文化や・仏教政策に積極的に協力していたたと考える方が妥当であり、これまで可能性を除外してきた研究者達の姿勢の方が不自然であり、私は不当でもあると感じます。
そして想像される、信玄が三条夫人から受けた仏教方面での影響ですが。
このような環境にあった正室の三条夫人との交流により、自ずと信玄の仏教の教義への理解も更に深まったことでしょう。
また、この信玄と三条夫人の周囲に集まった禅僧達のいずれも高い教養、そして特に仏教についての学識と理解のある人々でした。


また、こうした京都の妙心寺派の禅僧達と三条夫人はかつて京都に住んでいたという共通の文化的背景も存在していますし。
そして信玄と三条夫人、更にこうした禅僧達との間の文化、そして仏教面での交流や知的刺激などを想像すると私は大変に興味深いものを覚えます。そして信玄や三条夫人、そして彼ら禅僧達との知的交流の収穫が「甲府五山」などの当時の甲斐に大きく花開いた仏教文化として花開いたのではないでしょうか?
また、上野晴朗氏も三条夫人が甲斐文化に及ぼした影響として、快川和尚からも葬儀の追悼の言葉の中でこう
語られている。「三条夫人の仏法は、鴛鴦の仏法と断ずることができましょう。すなわち夫の信玄公との間は、比翼の契り、夫婦仲の睦まじかったことはたとえようもなく、常に仏法護持の信玄公のお考えに従って行動され、七宝に輝く堂舎のことなど考える暇もなく、正邪を判別する認識の上に立って身を律しておられました.。」

そしてこのように、信玄は三条夫人と共にまさに学問、文化、振興への殿堂を築き、文治政策を推し進めようとしたことが明らかであること。また、信玄と三条夫人の結婚以降、定期的に公家達が甲府に下向。
そして彼らや甲府の各寺院の禅僧達と共に、更に武田家の家臣達も参加しての歌会が催された例を挙げ、更に続けて上野氏の以下の指摘。
これらは全て公式記録の代表的なものを追ったに過ぎないが、これらに付随する文化的行事の場所は、信玄が文治政策の中心に据えていた甲府五山や一蓮寺、積翠寺方面で、表の記録に現われないまでも、こちらの方面での三条夫人の果たした役割やその影響が絶大なものであったことがわかる。

そして一連の上野氏の指摘も踏まえた上での、私の想像ですが。







また、「武田氏研究 第八号  武田信玄の王朝文化摂取 岩田書院」の中では.なかざわ・しんきち氏も、信玄の和歌などの代表的な王朝文化を含め、広範囲で深い教養は清華七家の一つの名門公家の姫として高い教育を受けていた三条夫人の影響が大きく感じられると指摘していますし。信玄夫婦の関係の再考察や三条夫人へのされも行われる様子もないまま、虚しくここまで長い年月が過ぎてしまっただけなのは、私は本当に残念です。単なる家康と築山殿夫婦のコピーとしてではなく個別で真面目な彼らについての新たな考察を研究者にも望みたいですね。そもそも、三条夫人の悪女象は、ほぼ具体的根拠もないし、文献的根拠も皆無、そしてそのイメージは歴史小説から来ている部分が大きい、このように最初から大きな問題を孕んでいますし。
それにこれまで、あまりにも一方的で紋切り型、ステレオタイプで本当に明らかにそのまま徳川家康正室築山殿と同一視しただけの、高慢で嫉妬深い悪女で信玄とは不仲という見方についても、このように、一九九〇年の「信玄の妻 円光院三条夫人」、そして一九九〇年のなかざわ・しんきち氏のこれらの指摘などは、こうした見方についての修正を迫る転機になり得たはずではないかと私は感じるのに。それなのに、こうした三条夫人や信玄との夫婦関係の本格的な見直しの契機にまではならず、つくづく、私は残念に思います。



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稲葉一鉄の娘で春日局の母おあんの名前は「安寿女」からの珍しい名前

今回もまた、戦国時代の女性の名前シリーズですが。
これまでの私の同様の内容の記事の「名前と干支、武田信玄妹と豊臣秀吉正室の禰々の名は子年から?http://saihobijinsanjofujin.blog.fc2.com/blog-entry-135.html」などでもわかる通り、著名な戦国女性達のいずれも、当時のごく一般的な女性の命名法に従って付けられていることがわかります。京都方面、いわゆる都風の名前の「茶々」、そしておそらく、「おごう」。また、細川ガラシャの実名で公家の三条西実隆の日記の「実隆公記」に「名前と干支、武田信玄妹と豊臣秀吉正室の禰々の名は子年から?」も見られる「たま」という名前。また、武田信玄妹で諏訪頼重正室の禰々や豊臣秀吉正室の禰々など。
他にも、織田信長妹のお犬や信長側室のお鍋など。他にもこうした動物の名前は、豊臣秀吉側室の龍子やとら、また豊臣秀次側室の駒姫などがあります。そして既に私の以前の名前に関する記事でも触れているように、おそらく、武田信玄妹や豊臣秀吉正室の「禰々」という名前も、動物のねずみから来ていると考えられます。
それからこの北政所の名前は、実際には「おね」だったという見方が強くなってきてはいますが。
しかし、この角田氏の「日本の女性名 中 教育社」の中で、最初、戦国研究者桑田忠親氏が主張したこの説についての反論も行なっています。



まずはこの本の中で角田氏も取り上げている、この桑田氏の北政所の実際の名前は「おね」であるとする根拠ですが。
それによると北政所自筆の消息の宛名にはみな「ね」と署名している。
そして秀吉自筆消息の宛名では「おね」とされている。だから北政所の名前は、実際には「ね」か「おね」が正しい。
そしてこれに対して、角田氏は次のように反論。
徳川秀忠正室お江が姉の常高院おはつに宛てた手紙の中では、おごうは「五」と署名していること。
また、これは桑田氏も「女性の名書簡」の中で取り上げているように、細川ガラシャの場合も自分の手紙の中で「た」とのみ署名していること。そしてこれらのように、当時の女性達が自分の名前の一文字を署名するやり方は女性が署名する場合の慣例。
つまり、秀吉の正室が「ね」と署名したのは慣例に従ったに過ぎず。それは彼女の名前が「ね」であったことを示すものではない。
また、永禄二年の三月頃、正妻に宛てた秀吉の自筆消息には、「ねもじ」と見えるが。
しかし、これは「ねね」に対する略称であって、やはり、彼女の名前が「ね」であったことを示してはいない。
また、秀吉のこの「おねへ」という宛名は愛称。
これらを取り上げて、秀吉の正妻は、「ね」または「おね」という名前であったなどとするのは、不適格である。


そしてこの禰々(女)という女性名は、鎌倉時代頃から現われ始めるが、既に平安時代末期には存在していた可能性が高い。
そしてその後も、この「ねね」という名前は連綿と続いており、桃山時代にはごくありふれた名前になっていた。
一方、「ね」とか「おね」とかいった女性名は、室町時代にも桃山時代にも全く検出されないこと。
そのため、秀吉正妻の名前は、従来言われている通り、ねね(禰々)であったと認めるべきである。


そして私もこの北政所の実際の名前に関しては、角田氏のこれら一連の指摘と反論の方が妥当であるように思うのですが。
それに何といっても、角田氏は日本の女性名研究の第一人者ですからね。
更に私が角田氏のこれらの反論の方に説得力を感じる他の理由としては、やはりこの北政所ねねの他にも、武田信玄妹のねね、また他の同時代の多くの女性名にも、同じ「ねね」という名前が発見されること。
一方、角田氏も指摘するように、当時の女性名の中に「ね」や「おね」という名前の方は発見されないことです。
それに、角田氏の「日本の女性名 上」の古代の女性達の名前の中にさえも、「ね」のような完全に一文字だけの女性名は見当たらなかったと思いますし。




それから、このように当時の戦国女性達の名前も、ごく一般的な名前が多かった中で、珍しい名前も存在しています。
石田三成の侍女や稲葉一鉄の娘で春日局の母の名前の「おあん」です。「日本の女性名 中 角田文衛 教育社」の中では、角田氏が石田三成の侍女で後に「おあむ物語」を記した「おあん」を例に取り上げています。また、最も早いこの「あん」という名前が早く出てくる例として、前田家家臣で能登国の末森城を守っていた奥村永福の妻の加藤安を取り上げています。
そして角田氏の指摘によるとおそらく、これは「安寿女」が分解して「安」という名前になったのであろうとしています。
更に名前の分類としては「壽型」に相当し、「万壽女(まんじゅ)」という名前も見られます。
既に平安時代から存在していた名前のようです。この「壽(寿)」は寿命が長いという意味から縁起が良いとして、特に好んで公家の子供達の幼名として使われていました。

武田信玄と義信対立時に和解に奔走した禅僧快川・春国・藍田と三条夫人との関係再考

私が以前の記事で書いたように、おそらく、永禄九年の十一月に、義信の母の三条夫人が義信の無事を祈願して美和神社に義信の赤皮具足を奉納しており。更にこの直前に、義信事件が発生したと考えられること。
そしてこうした緊迫した時期であった想像される永禄九年の六月に、恵林寺の快川和尚が信玄も帰依していた駿河の臨済寺宛ての書状と更にこれも同日に、甲府の長禅寺の春国光新宛ての書状から、この時期に快川和尚、そして長禅寺の春国光新、更に東光寺の藍田恵青が信玄と義信親子の対立から彼らの和解のために奔走していた様子がわかります。(いずれも、岐阜の南泉寺蔵の「快川国師法語」収録。)
更に私は以前の記事では、この快川和尚は、信玄と共に日頃から三条夫人が交流していた禅僧だったらしいので、おそらく、この快川和尚が春国光新や藍田恵青と共に信玄と義信の和解に向けて尽力していた時に、おそらく、信玄正室であり、義信の母である三条夫人からも快川和尚により、信玄義信親子を和解させてくれるように依頼があったのではないかというように、書きましたが。


しかし、改めて考えてみると他の春国光新や藍田恵青に対しても、三条夫人からの同様の依頼もあっても、不思議でもないのではと私は思うようになりました。既に書いているように、この春国光新は永禄十年十月の武田義信の最初の葬儀では大導師を務め、更に義信の「東光寺殿」の法号も与えていたらしく。
また続いて、天正三年四月の武田信玄の三周忌法要では春国光新は導師を務めていますし。また、元亀元年七月の三条夫人の葬儀には、彼自身の参加ではないとはいえ、その弟子の鉄觜、そしてこれも春国光新の弟子で更に彼の跡を継いで長禅寺二世住職になっていた高山玄寿が参加していますし。
また、東光寺住職の藍田恵青もこの葬儀に名前が見えますし。
そしてこの藍田恵青は、信玄から天文二十三年に、岐阜の妙心寺派の寺院の瑞龍寺から甲府に招かれて東光寺住職になる。その後、弘治二年の五月に死去した東光寺の先代住職の仁甫珠善の後任として、彼の法嗣であったこの藍田恵青が、おそらく、既に信玄の承認も得ていた快川和尚からの招聘状を送られて、新たに東光寺住職となっています。


このような春国光新や藍田恵青と信玄や三条夫人、義信との関わりが見られること。また、長禅寺も東光寺も信玄が選定した「甲府五山」の寺院でもありますし。
それに信玄により甲斐に招かれた禅僧達の出身地こそ、必ずしも京都ではないものの、しかし、いずれも京の五山派や関山派や妙心寺派の禅僧達ばかりですし。(そしてこのように、信玄が甲府に甲府五山を開き、こうした京の五山派や関山派などの名僧を次々に京都から招いたので、「仏法東遷す」と京都の文化人を嘆かせた程であるとか。)
さぞ、仏教関連の話を中心として、京都の公家の姫であり、自身も信仰心の深い公家の転法輪三条家の姫である信玄正室三条夫人と彼ら禅僧達の話も弾んだのではないでしょうか。
それは快川和尚のように、夫の信玄を介しての三条夫人との具体的な交流の形跡までは、春国光新や藍田恵青には見られないものの。しかし、これらの関係や背景などから考えて、三条夫人と彼らとの日常的な交流も当然存在していたのではないかと考えられます。

信玄正室三条夫人葬儀での快川和尚の追悼の言葉の「西方の一美人」の西方の意味

元亀元年(一五七〇)七月二十八に成就院で行なわれた、武田信玄正室三条夫人の葬儀。
そして参列した大導師の快川和尚の追悼の言葉の中に、「西方の一美人」という言葉があります。
そして私は今までこの「西方」というのは、具体的には何を指すのだろうか?という疑問をずっと抱いていました。西方というと、そのまま、西方浄土という言葉が連想される所もありますし。
単なる方角として、西の方から三条夫人が信玄に嫁いできたとかいうような意味にも、取れなくもないのですが。しかし、その前の箇所の快川和尚の追悼の言葉の部分から考えてみると、この「西方」という表現は、より仏教的な意味合いの方が強く感じられるようにも思います。


まず、この快川和尚の追悼の言葉は、次のように始まり、そして以下のような言葉が続いていますし。
「あなたは五十年の間、御仏の道を説いてまいりました。(転法輪)しかるに重陽の菊の涅槃に入り、やわらかく透きとおった、真の御仏になられてしまわれました。まさに三条家の明るく光り輝くともしびは、霊山の涙一色におおわれてしまったといえましょう。」
(「信玄の妻 円光院三条夫人 」上野晴朗 新人物往来社)
そしてこの「霊山」というのは、霊山浄土という、仏教の浄土の一つであり、この霊山は釈迦がしばしば説法を行ったとされる霊鷲山の略です。やはり、この「西方の一美人」の前に、涅槃や真の御仏、そして霊山などの仏教に関する言葉が続いていることから考えて、この「西方」というのは単なる方角を表わしているのではなく、西方浄土のことを示していると思われる。つまり、三条夫人のその信仰心の深さについて表わしている言葉なのではないでしょうか?
そして私はこの追悼の言葉自体の、その元々の性質から考えてみても、こう考えた方がよりしっくりとくるように思えるのですが。

武田信玄との交流があり、また大内義隆の漢詩の師でもあった策彦周良

武田信玄のその文化・学問、そして仏教の振興政策として、甲斐には各地から多くの高僧が招かれました。
そしてその中の一人であり、恵林寺にある策彦周良は、大内義隆の漢詩の師でもあったようです。
このように、当時の禅僧達は大変な教養を身につけており、またこうした彼らの下で「五山文学」として、漢詩文化が発展しました。また、こうした禅僧達から戦国大名が漢詩を学ぶこともよくありました。
そしてこの大内義隆も、様々な教養を身につけることに熱心な大名の一人でした。
これには義隆個人の興味関心だけではなく、元々、大内氏も今川氏などのように歴代当主が文化や学問の習得に熱心な傾向であり、また当時の様々な文化を担っていた立場の人物でもある、公家との交流も盛んだったこととも関連があるようです。


例えば大内義弘は和歌・連歌に秀で、応仁の乱に今生の思い出にと千句の連歌や百首の和歌会を開き、最後の雅遊にふけったと伝えられ。また他にも、古典や歌書の収集にも熱心だった。更に盛見には詠草が残り、大内持世は歌人として、その名声は高い。
更に大内政弘は東山文化の終わりから戦国時代の初めにかけての、日本を代表する程の稀に見る武家文人であり、大内氏の国文学の大成者でもある。そして特に彼のその古典や歌集の収集には絶大なものがあり、連歌師の宗祇を後援しての『新撰菟玖波集』撰集の原動力となる。大内政弘自詠の二万余首の中から千五百首を選ばせた家集の『拾塵和歌集』十巻がある。
他にも連歌の抄もあったが、現在は失われている。そしてこのように、和歌や連歌は大内氏とその被官の日常生活の中に組み込まれていた。
こうした大内氏の当主である、大内義隆に請われ、策彦周良が大内義隆に漢詩を教えることになったようです。


そしてこの天龍寺三世の策彦周良には、法泉寺の壁に書いた詩や義隆の私邸で高麗芍薬を見て作った詩も残っている。また、義隆に請われ、東福寺の梅屋宗香のために住山疏も作っている。
更に策彦周良の『初渡集』や『再渡集』によると前後十数年に渡る、大内義隆との親交の様子が窺えるし、義隆の方も策彦の漢詩の作風を尊敬し、それを厚く奨励したことは南禅寺の仁如集堯の『縷氷集』によってもわかる。それから、この仁如集堯については、私が以前の記事の信玄が正室の三条夫人から受けた文化的影響の中でも触れていますが。
この仁如集堯は天文二十年の六月に、大徳寺の材岳宗佐の嘱に応え、武田信玄が作った十七首詩巻の跋(あとがき)を書いて、信玄の詩作を称えてもいます。
そしてこの策彦周良は、天文十年には義隆の遣明使の派遣にも協力しています。
彼は弘治二年の十月頃には、武田信玄により、美濃へ帰国した快川和尚の後住の恵林寺住職として甲斐に招かれました。更にこの翌年に穴山信君の城を訪れた際には、彼の母である穴山信友正室の南松院に請われ、「葵庵理誠」という法諱も授けています。それからこうして改めて見てみるとこの策彦周良は、漢詩にも造詣が深い禅僧であったこともわかり、宗教者としてだけではなく、そうした文化人としての面も、信玄に注目され、また評価されて、甲斐に招かれたということでしょうね。
また、この策彦周良が大内義隆の派遣した遣明使の一人にもなっていることなどからも、やはり、当時の禅僧達が宗教者、文化人、外交官という幅広い役割を担っていたことも確認できますし。

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プロフィール

KAGARISAYO

Author:KAGARISAYO
私は長年の間、武田信玄正室三条夫人について、その研究を続けています。そして私は、三条夫人の復権と積極的な再評価を目指しています。
私は昔から三条夫人についての、その数々の否定的な扱いや評価には、納得がいかないものを感じ続けていました。


どうもその恒例の彼女の悪女扱いも、彼女が個別でそのように捉えられているというよりも、徳川家康正室でこれも悪女だとされる、築山殿と同一視されている気配を何かと感じてしまうし。更にその内に、これはぜひとも自らの手で、三条夫人の実像、そして彼女が武田信玄正室として、どう生きたのか?
その生涯について、解明したいと思うようになりました。


また、彼女の他にも武田勝頼生母の諏訪御料人など、武田信玄関連の女性達については、史実に基づかない、捏造された逸話ばかりが流布しており。
私はこうした現状を憂慮し、ぜひ、なるべく史実に沿った情報の発信をしていきたいと思っています。それから、このブログ名になっている「西方の一美人」というのは、武田信玄もその学識や人物に深く傾倒し、親しく交流していた名僧快川和尚がその追悼の言葉の中で三条夫人を評した「愁殺す、西方の一美人」という一節。
ここから採ったものです。


私の武田信玄正室三条夫人のサイトについての、連絡先変更のお知らせ
すみませんが、今後私のサイトの方のログインができなくなってしまったので、連絡先の変更のお知らせです。
今後サイトについての感想などがある場合は、こちらのブログのメールフォームの方からお願いします。

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